その功績【アウトバーン特集】アウトバーンは今でもつい最近できたかのように美しく、また驚くべき最新の技術が導入されている。しかし、アウトバーンは実際には世界で最も古い高速道路なのである。 その誕生はヒトラーの第三帝国の時代。 一般には暗黒の時代とドイツでは言われているが、その実際は次に述べる光の革命が行われていたのである。 アウトバーンの第二次世界大戦が終わるまでの正式名称は「Die Straben Adolf Hitlers」(ディ シュトラーセン アドルフ・ヒトラース)。 つまり、アドルフ・ヒトラー道路である。 1933年から42年にかけておこなわれた国家規模の工事はナチスが行った公共事業でも最大規模のもので数十万人の人手が投入された。 こうして誕生した軍用道路は新しいドイツ帝国の象徴としてナチスの宣伝にもおおいに利用された。 「30年代のうちに時速160キロで走行できる道路をつくる」というのが当時の目標であった。 そしてこの自動車専用道路はドイツが世界のどの国よりも技術で勝っているのだという事を内外に示した。 その代表例が流線型のクルマであり、アウトバーンのカーブである。 高速で走る自動車専用の道路というアイデアは、ヒトラー自身が考えた。 1923年、ミュンヘン一揆に失敗し、投獄されていた時のアイデアであるという。 現代ではあたりまえのいくつもの事がこの建設が発祥である。 ・中央分離帯を作ってクルマの流れを分離。 ・2車線にして早い車が遅いクルマを抜かせるようにした。 ・カーブの外側だけを高くしてクルマが遠心力で飛ばされないようにする。 上記は総てこの道路に由来している。 当初この計画にナチスは反対であった。なぜならクルマはごく一部のエリートしか所有していなかったからである。 しかし、ヒトラーが政権を掌握し、最高指導者になると党の態度も変化。 道路が偉大なドイツ帝国につながると解釈され、そのうちの一本はモスクワまで繋がる構想があったのだ。 そして、アウトバーンはかつてのローマ帝国がそうであったようにヒトラーの第三帝国の骨格をなすようになったのである。 1933年、9月、アウトバーンの建設はフランクフルトの郊外から始まった。 ヒトラーもシャベルを握り、共に大工事をスタートさせたのである。 その後、ドイツ全土より13万人もの失業者を集め建設用地を切り開いた。 機械化が進んでいなかったためと、ナチスが肉体労働を美化していた事もあり、最初は総て手作業であった! その姿は理想的な労働者であり、その姿はプロパガンダ映画にも多数納められている。 作業は混乱を極めた。総監に任命されたトートが実用性に加え、美しさも演出しようとしたからだと言われている。 しかし、その演出も大きな役目であったと言える。 アウトバーンには橋も多く、千を越す橋が架けられた。 つり橋やアーチ、大型のものもあり、総工費の3分の1は橋に費やされた。 1935年5月19日フランクフルトとダルムシュタットを結ぶ60キロの区間が開通! 一番乗りはもちろんヒトラーである。 この道路が総てのモデルとなった。 片側ニ車線で中央には分離帯がある。 路面はコンクリート。 インターチェンジも誕生。その存在のおかげで、より早く我々は高速道路を走る事ができるのだ。 信号や、「止まれ」をなくし、立体交差によって止まるロスを排除したのである。 この発想は今は常識だが、当時としては真の革命であったといえよう! この道路は非常に海外でも評判で、来客などよりも高い評価を得ていた。 海外では自動車専用道路という概念すらない時代の事である。 ジャンル別一覧
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